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15年の入院生活を経て、叶えたい夢。増田謙一郎さん|デュシェンヌ型筋ジストロフィー

今回は、徐々に筋肉が壊れていく難病、デュシェンヌ型筋ジストロフィーを患い、長期療養施設で暮らしながら、在宅生活を目指す増田謙一郎さんを取材させていただきました。

これまでの経緯

  • 1992年(2歳)歩き出すのが遅いなと母親が感じ、診察を受けると「デュシェンヌ筋ジストロフィー」と診断される。しばらくして何とか遅いながらも自力での歩行が可能になる。
  • 1998年(8歳)歩くことが難しくなり、車椅子生活になる。
  • 2001年(11歳)電動車椅子に移行。脊柱変形の症状が出始める。
  • 2007年(17歳)夜間の酸素飽和度低下が見られるようになり、夜間のみ鼻マスク式の人工呼吸器を装置するようになる。
  • 2015年(25歳)昼間も息苦しさを覚え、24時間人工呼吸器を装置するようになる。
  • 2018年(28歳)将来のことを考え、胃ろう増設手術を受ける。経口摂取と胃ろうを併用し、栄養を摂るようになる。
  • 2019年(29歳)心機能の低下が顕著になる。
  • 2022年(32歳)心機能低下に起因する胸水に悩まされるようになる。嚥下障害の症状が出始める。

自己紹介

※カープファンの仲間から貰ったグッズと(本人提供)

初めまして。増田謙一郎と申します。

私は、デュシェンヌ型筋ジストロフィーという病気で、17歳から長期療養型の病院で療養介護制度を使って生活しており、今年で33歳になりました。

筋ジストロフィーは全身の筋力が徐々に進行していく難病です。現在は、手足の指先と顔周りが少しだけ動く程度で、呼吸も難しく24時間人工呼吸器を装着しています。

また、腹筋も弱いため排便コントロールができなかったり、嚥下障害、心機能の悪化など、時間が経つにつれて様々な症状が出始めています。

次に感染症を発症した時は命に直結する。

主治医からはそう言われています。

それでも、私は残りの人生をかけて、在宅生活に挑戦することを決意しました。重度身体障害があり、24時間医療的ケアが必要であるため、在宅での生活にはいくつもの課題がありますが、たくさんの人に協力いただきながら、実現に向けて動いています。

同級生との体の違いを痛感

診断は2歳の時です。

母も筋ジストロフィーを患っており、中々歩かない僕を見て「もしかして…」と思い病院に連れていくと、同じ筋ジストロフィーであることがわかりました。

地域の小学校に通い、2年生の頃には立ち上がることも難しくなり、車椅子生活になりました。子供ながらに筋ジストロフィーが進行性の病気で、いつか動けなくなる時が来るのは分かっていたため「その日が来たか」と落ち込むことはありませんでした。

また、病気の進行によって、学校内にスロープを増設したり、階段昇降機を導入してもらったりと、体に合わせて設備も変更していただいたため、困ることはありませんでしたが、中には「歩けないふりをしてるだけ」と心無い言葉をかけられることもありました。

それが悔しくて。その悔しさを晴らすため、勉強を頑張って、見返したいと思ったりしてましたね。

中学校も私の希望で普通学校に通ったものの、同級生との差を突きつけられることとなりました。

授業のスピードは早くなりノートを取るのが間に合わなかったり、給食時間も20分しかなくほとんど食べられなかったり、自分の体は弱っていく一方で、同級生は成長していくため、体の差がどんどん開いていったのです。

次第に学校を休むようになりました。

突然入院を伝えられる

※自ら製作した球場模型を目の前に職員と語る(本人提供)

学校に行くことがしんどくなり、介助面では安心できる特別支援学校に転校することになりました。

特別支援学校は障害者ばかり。同級生の多くはコミュニケーションが難しく、自分の学力に適した授業を受けられるのか不安があったのが正直な気持ちです。

実際に通ってみると、自分のペースで勉強ができ、一人ひとりに合った対応をしてもらえたので、楽しく通うことができました。

でも、それは高校2年生の秋まででした。

筋ジストロフィーの母に代わって、祖父母に支えられて日常生活を過ごしていましたが、祖父が脳梗塞を起こし、片麻痺になってしまったんです。

そして突然、母から「入院の手続きをしてきた」と伝えられました。

母と僕、そして祖父。在宅で生活するには祖母の負担が大きすぎる。そう判断した母は、私に内緒で主治医に相談し、長期療養型の病院に入院させることを決めたのです。

もちろん反対しました。

でもその一方で、生活が難しいこともわかっており、祖母にこれ以上負担をかけたくないとの思いから、予定よりも早めに入院を決意しました。

初めて告げられた死の可能性

入院直後は、生活が全て決まった時間に行われる集団生活に戸惑うこともありましたが、すぐに看護師さんや他の患者さんに合わせて生活ができるようになりました。

高校卒業後も、院内の売店で好きなものを食べたり、病室の友人と遊んだり、職員さんと余暇活動をしていたため、生活に困ることはありませんでした。

それなりに、楽しかったんです。

楽しい日々は過ぎていく一方で、病気は着実に進行していきます。

2019年に心臓超音波検査の検査をすると、心臓の数値が大きく悪化しており、主治医からは「心臓が悪くなってるから、感染症になった時は命の危険がある。これ以上数値が悪化するとかなり危ない状態」と言われ、初めて死の現実を目の前にしました。

これまで体が動かなくなって、たくさんのことを諦めてきましたが、落ち込むことはありませんでした。

しかし、自分の死は別でした。看護師さんへ酷い言葉をかけることもあり、感情がコントロールできなくなりました。

そんな時に支えになったものは、家族とカープの存在でした。

なかなか会うことができない家族へ病状を伝えると「どんなことがあっても、家族としてできることはするし、外に出たかったらサポートする。症状が悪くなってもこれからも応援するよ」と連絡があり、私は1人ではないと思うことができました。

またカープは、私の原点でもあり生きる活力でもあります。

※マツダスタジアムで観戦を楽しむ様子(本人提供)

ボランティアさんにお願いをして、初めて外出したのも球場に行きたいという思いからでした。

病気の進行で心が折れそうになっても、カープの試合中は現実を忘れさせてくれます。

社会と私を繋ぎ止めてくれるものが、カープの存在でした。

コロナ禍で退院を決意した

2020年、世界中で新型コロナウイルスが蔓延し、私が入院する病院でもすぐに外出・面会が禁止になりました。

最初はすぐに元の生活が送れると思っていました。しかし、気づくと3年半が経過し、病院から一歩も出れないことが当たり前になっていました。

高校卒業時には、退院なんて考えてもいませんでした。私たちは、こうした場所で過ごすのが当たり前だと、運命なんだと思っていたからです。

しかし、病気も進行し、残された時間は多くありません。外出も家族にすらも会えないままだと絶対に後悔すると思い、15年過ごした病院から退院し、在宅で生活する挑戦を決意しました。

また、コロナ禍で病院の人手不足も増しています。食事介助を満足に受けれないことや、トイレにもすぐには行けない、時には週に2回しかないお風呂に入られないこともあります。

そんな最低限の生活すら保障されていない環境に疑問を抱くようになったのも、退院を決意した1つの要因です。

もちろん退院には大きなリスクがあります。

しかし、リスクを回避して病院に閉じこもったままの生活より、自分らしい生活を送ることの方が、人間らしく充実した人生だと思うんです。

退院に向けて動くだけでも、たくさんの出会いがありました。多様な考えに触れることができ、これまで見えなかった景色が少しずつ見えてきました。

24時間医療的ケアを必要とするため、思ったより遠回りをしていますが、課題に直面して、もがく事も、私の人生にとってプラスになると思っています。

今後の目標

※外出制限のため、療育活動で外の空気を浴びる様子(本人提供)

まずは、退院して安定した在宅生活を送る事です。

そして、これまで行けなかった場所、出来なかったことに挑戦していきたいですね。

また、私と同じように、望まない入院をしている方や、在宅生活を送る方法がわからない方のために、実体験を記し、想いを、私が生きた証を残したいと考えています。

望まない生活を自分の運命と思ったり、自分には何もできないと思っている方に、少しでも勇気を与えられると嬉しいです。

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