筋ジス人生を通して、次世代のロールモデルになりたい。井出今日我さん|デュシェンヌ型筋ジストロフィー
今回はデュシェンヌ型筋ジストロフィーを抱えながらも、訪問介護サービスを活用して一人暮らしをしつつ、講演活動や電動車椅子サッカー選手として活動される井出今日我さんを取材させていただきました。
これまでの経緯
- 1990年 長野県佐久市に生まれる
- 1995年 5歳の時に筋ジストロフィーを発症
- 2006年 高2の時に脊椎損傷の尊敬する仲間などとスイス登山に挑む/電動車椅子サッカーを始める
- 2008年 18歳の時に長野大学・社会福祉学部に入学
- 2011年 11月肺炎のため入院 NPPV(非侵襲的陽圧換気)導入を検討
- 2012年 同校を卒業 社会福祉士受験資格取得/福祉事業所に就職するが、職場での介助体制を保てず半年で退職
- 2015年 25歳の時に念願の自立生活を始める
- 2017月 軽度の脳梗塞で入院
- 2018年 長野県の人権教育講師派遣事業の講師になり仲間とタッグ講演スタート
- 2019年 NHK バラエティーに出演/長野県へルプマークディレクターを委嘱
- 2023年 個人事業主として開業 障害×〇〇をテーマにマネタイズへ向けて行動中
自己紹介
長野県上田市で、24時間訪問介護サービスを活用して一人暮らしをしている井出今日我(いできょうが)と申します。
普段は電動車椅子で過ごしており、講演活動や電動車椅子サッカー選手として活動しながら、日常生活はヘルパーさんに支えていただき、夜間のみ鼻マスク型の人工呼吸器を使用しています。
私が筋ジストロフィーと診断を受けたのは5歳の時です。
3歳年下の従兄弟と比べ、体の動きに違和感を抱いた母が病院に連れて行くと、筋ジストロフィーのデュシェンヌ型と診断されました。
幼いながらに、泣いている母親を見て、悲しいことがあったとは理解していました。
まもなく看護師でもあった母親から、病気について説明を受け、私の筋ジス人生が始まることとなりました。
同級生と馴染めなかった学生生活
特別支援学校には行かず、地域の学校に通ったものの、学生生活は人間関係に悩まされていました。
私は筋ジスの進行によって、体が徐々に動かせなくなっていきます。その一方で、同級生は体も力も成長していき、小学校高学年になると差が顕著に開いていきました。
1番体を動かして遊びたい時期に、一緒になって遊ぶことができず、もどかしさを感じ、時にはわざと周りに嫌われる発言をしたこともあります。
そうでもして、振り向いてもらいたかったんです。
でも、結果は喧嘩が増える一方でした。
「このままではいけない。変わらないと」。そんな想いで心機一転、中学校に入学するも、同級生との関わり方を見失っていた私は、またもや馴染むことができませんでした。
楽しみにしていた部活動は卓球部に所属したものの、筋ジスはさらに進行し、同級生と試合どころか「お前下手だから練習にならないよ」と練習相手もおらず、ますます孤独になっていきました。
ロールモデルとの出会いが人生を変える
体は動かなくなり、学校でも居場所を見失っていた私に転機が訪れます。
それは、高校での講演会で講師として来てくださった内田さんに出会えたことです。
事故により脊髄損傷となった内田さんは、夢を持つ大切さを講演で伝えていただきました。
講演後すぐに校長室にいる内田さんの元へ伺い、抱えていた悩みについて相談したんです。
「君の夢は何?」と聞かれ、野球が大好きだった私は「巨人のエース上原投手とキャッチボールがしたいです」とすぐに答えました。
すると、その冬に私の夢が叶ったんです。
内田さんが繋いでくださり、本当に上原投手とキャッチボールができました。
そこから、内田さんと交流が続き、高校2年生のとき登山に誘っていただきました。もちろん、私たちは歩けません。健常者の方よりも大きな壁がいくつもあります。
「今度は一緒に夢を叶えよう」
内田さんの提案を断る理由がありませんでした。
登山チームには、アルピニストの野口健さんやロボットスーツHALを開発した山海教授をはじめとする、内田さんの強い想いに共感した人が集まり、私たちの挑戦が始まりました。
そして、2006年。スイスにある標高4000mを超えるブライトホルンに挑みました。頂上まではいけなかったものの、山から見る景色は格別でした。
人間関係がうまくいかず塞ぎ込んでいた私の悩みがちっぽけに感じるくらい、最高の景色でした。
親亡き後の不安から自立生活に挑戦
夢を持つこと、挑戦することの大切さを身をもって経験させていただき、今度は私が若い障害者のために頑張ることで、内田さんに恩返しがしたいと思うようになりました。
そして、福祉を学ぶため大学に進学したのです。
当時は合理的配慮という言葉もなく、学内での介助は全て自分で頼まなければいけませんでした。
友人がいない時は大学職員にお願いをしてトイレ介助をお願いしていましたが、ある日ゼミの先生から呼び出しを受けることになりました。
「大学職員は君の介助をするためにいるんじゃない」
脳性麻痺の当事者でもある先生から、受け身で介助を受けている私を甘いと言われ、そのときは納得できませんでした。
しかし、訪問介護事業所に就職してからも、先生の言葉は頭に残り続けていました。
「このままの生活で良いのだろうか」
母親と2人暮らしをしており、介助のことで喧嘩も増えたり、母親の年齢を重ねるごとに自分の満足いく生活が維持できなくなっていました。
母親に頼るだけでは、いつか施設に入所せざるを得ないと思い、一人暮らしに向けた情報を集め、同時に行政交渉も当事者団体とともに行っていきました。
親亡き後の不安を覚えて、約6年。
念願叶って、ようやく自立生活を手に入れることができたんです。
経済的自立を目指したい
現在は、個人事業主として、講演活動やバリアフリーを推進するための活動をしながら、電動車椅子サッカー選手としても日々戦っています。
自立生活を始めて、今年で9年が経ちます。
私は一人暮らしが自立生活のゴールとは考えていません。経済的自立もして、初めて自立生活と言えると思うのです。
私自身、一度は就職したものの、当時は親亡き後の不安も抱えており、仕事へのモチベーションが少なく、受動的に業務を行っていました。
経済的自立とは単にお金を稼ぐだけではなく、自分の得意なことや、やりがいを持ちながら収入を得ていくことと考えており、今後は25年の筋ジス人生で得た経験を活かして、仕事を生み出していきたいです。
筋ジストロフィーは、病気でありながら私の一部でもあります。
確かに、病気の進行は遅らせたいですが、治したいとはまったく思っていないんです。
筋ジストロフィーがあったから、出会えた繋がりや経験がたくさんあります。十分幸せなんです。
だからこそ、障害児を抱える家族に対しても、人生の可能性をもっともっと感じていただけるよう、内田さんが私にとってのロールモデルだったように、今度は私が誰かにとってのロールモデルになりたいですね。